テキストの終焉と新しい情報ツール

語られる言葉の力は文字や記号の比ではない。無機質な文字の羅列には想像を感情的に書き立てるくらいの能力しかないが、音の世界なら感性をダイレクトに刺激できるはずだ。何事も ただ感情に訴えるだけであれば、それは他に媚びる手段と言わざるを得ないだろう。ではなぜ、従来のテキスト文化がいまだに継続されているのか? たんにそれに変わるものがいまだ一般化されていないからである。これまで学問や教育・思想はみな文字や記号によって普及してきた。その曖昧さゆえに さまざまな受け取り方がなされてきたのだが、それを由しとするのも すでに限界が見えてきたように思う。

自由とは 解釈の仕方の多様化を容認することではない。重要なのは現実であって、学問でも机上物理でもない。それはあくまで工学的なものだ。人は何でもかんでも大雑把に同様のものへと押し込めて理解したがる生き物だが、正確には環境が偏りすぎているために生じる「欠けた部分の種類の違いが 個人の差となって出ている」わけである。よって むしろ画一化が障害を招くのではなく、差をことさらに意識するために浮かびあがる 個々の妄想様式こそが相違を感じさせる原因と考えたほうが自然なのだ。

目の前に起こる現実は 誰にとっても変わらないにも関わらず、人によって違うように感じるのは「見え方が違うのではなく、脳での変換イメージが異なるため」である。ならば、それが【誰の目にも】ではなく【誰の脳でも変わらない】といった情報ツールへ進化していかなければ意味がないのではないか。少なくとも それは文字や記号・数字で表せないことだけは確かだが、そこへ至る道はいかにも険しい。情報革命などといった 生半可な指針で成しえるはずもないが、志や夢を「まし」で終わらせないためにも、もっと人智を超えるような壮大なビジョンが必要とされてくるだろう。それは まだ誰も知らない現実かもしれない。しかし、人間の成長を促すために、経済・科学・技術・政治があるわけで、それ以外の目的によって行われる活動には何の意義もないと思われる。