各人の認識の違い

各人の認識はそれぞれで異なる。サラリーマンにとっては、何らかの事情で 今いる企業に務められなくなったら、問題が解決された後は元の会社に再度勤めるか、どこか他へ就職することを目指すだろう。もし、それが叶わぬなら、たいていは いつまでも浪人生活を送ることになる。これって まるで受験みたいだと感じるが、経営者にとっては当たり前の「会社は経営するものであって、勤めるものではない」という認識は彼らには存在しない。その理由はとりもなおさず リスクに関する捉え方の違いにあると思われる。

ある心理学研究では「リスクの認識の仕方によって、その人物の行動も決まる」とされている。たとえば、コロンビア大学の講義では「無条件で100ドルもらえる」と「確立は50%ですが、勝てば あなたには200ドル手に入りますが、負ければ0です。」のどちらを選びますか?という問いには、多くが前者を選ぶが「無条件で100ドル払う」と「確立50%の勝負に勝てば200ドル手にするが負ければ200ドル払う」という選択では、たいていが後者を選ぶというものがあった。つまり、メリットが先に来れば人間は確実性を選び、損失が先にくれば迷わずリスクを取るというわけだ。しかし、これらは冷静に考えれば、どちらも数学的に確率が同じ事象なのである。要するに、人はたとえ働かずとも確実に生活できるなら、けしてリスクを取らないことになる。ゆえに「この事業の失敗する確立は90%である」と伝えられればしり込みするのも当然だが「事業とは たいてい失敗するものであって、成功はきわめて稀である。だが逆に考えれば、この事業の成功確立は10%もあるではないか。だからマシなほうだよ。」なんて教育を行っても動かないだろう。無条件、すなわち勤め人のように100%の確立で給料をもらえなければ動かないのがほとんどの人の認識だからだ。

しかし、世情が困窮し、保護や援助を受けられなくなり「このままでは確実に生活できなくなる」と認識すれば、今度は誰もが平気でリスクを取るようになるに違いない。要するに、彼らにとってのリスクに対する認識とは環境の移り変わりなのだが、それでは どんな結果を招こうと【やらされている事】に変わりない。そこにあるのは生まれながらの環境と運だけであろう。しかるに前述のような正論を述べて、繰り返し説得するような教育に意味はない。なぜなら社会全体の流れをよく知り、現状の世界を包括的に見られればリスクに関する認識も自ずと変化するだけだからだ。よって あるべき論ではなく「世間知らずを解消するため」のさまざまな多様性を芽生えさせる教育を施さないかぎり認識は変えられないと思われる。そのためには、まず狭い世界へ閉じこもる気弱さを解消し、広い世界へ出て行く決意を促すために、多様性の面白さや楽しさを実感させなければならないだろう。理屈ではなく、たんに 人は面白ければやらずにはいられないのである。ゆえに人間は面白ない人生を送ってるなら必ず現状維持となり、勝負や変化が楽しいものなら そうするだけのことなのだ。すべては認識によって決まる。人生もそれに准じる。これが自然科学であり、哲学の最初の一歩なのだ。

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