フィジーでの語学学習

英語学習のための短期留学生がフィジー島へ殺到しているらしい。それもそのはずで、フィジーで最初に学校を始めたのは日本人。あくまでシャイなことが原因で英語が話せない 日本人向きにプログラムが構成されている。その要因は、まず価格が破格に安い事。そして、フィジーの人たちが世界一フレンドリーな国民性を持っているという事だ。

道を歩いていても、スーパーで買い物をしていても 望むと望まざるとに関わらず あちこちから話しかけられる。親日気質もあるのだろうが、とにかく陽気で話し好きの国民性なのだ。もちろん、遊びもレジャー施設も少ない場所だから、誰かと話すしかすることもないみたいだ。そんな環境にいれば、へんに気負わず、肩ひじ張らず、積極性さえあれば、誰でも一か月も滞在すれば 現地の人へプレゼンできるくらいにはなるそうである。つまり、この語学研修の売りは、授業内容なんかにあるのではなく「その環境にある」というわけ。

筆者には、ビジネスで海外へ出かけた際、数週間もあれば、通訳を介さず 自分の言いたい事を主張できるようになった経験がいくつもある。それは誰でもそうだと思っている。しかるに、できる人とできない人の差は、気負いを外せるか? 完璧さばかり求めて実践を怠っていないか? 普段の不安感やできないという感情もただの習慣だと気付けるか? そして、そんなものは何の意味もないことで、それゆえに何もできなかったと自覚できるかどうか? にかかっているような気がする。

新たに自らが作り出す環境と習慣こそがすべてであろう。それまでの思考や心情など、日常の何事においても何の役にも立たない。営業であれ、スピーチであれ、とにかくやってみなければ上達するはずがないし、身につくはずもないのである。論理的に原稿やレジュメを一語一句作成したところで、それでは相手とのコミュニケーションにはならない。大学教授が行う授業をイメージしても、実際の生活では成果が上がらないのでやるだけ無駄と思われる。そういった 日本人の完璧さや失敗したら恥ずかしいといった思いが、英語を話せない最大の要因となる。これはビジネスやスピーチでも同様。人前に立てば、そして 誰かと対峙すれば、個人の思考なんてものは何の関係もない話だ。

回数を重ねる。とにかく経験を積む。語学学習だけでなく、人生そのものが こういった過程で構築されていることに気付けるかどうか? 学習なんてどこにもない。現実をみることのみが新たな現実を作り出すのである。もし、そういう環境が日本国内でも作れれば、誰だって英語は話せるはずだ。計算されたカリキュラムよりも、現実に基づく哲学に従って 物事は進めるべきであろう。それは従来の思い込みを外す環境作りであり、プライドなんて捨ててしまえるようなフレンドリーな習慣作りにかかってくるように思われる。ならば 単純・簡単だ。英語で雑談する習慣を育める場を用意すればいい。その際に、文法はどうか? 品のある正しい言い回しか? なんて学習概念を持ち込むからこそ、あえてシャイでお堅い日本人は委縮する。そうさせるならば、あえて話せなくしているのと何も変わらないではないか。だからこそ、学習に毒されていない素人集団のアイデアが 得てして、企業でも団体でも成果を上げてしまうケースがみられるわけである。

たいていの場合、だめにしているのは専門家の意見であり、そういう権威的常識や思い込みに感化された素人たちの意見だ。それらをいかに排除し、現実を楽しめるようにするか? これがリーダーの取るべきスタンスであろう。いずれにしろ、論理的なものに人間の真実はないと思われる。なぜなら、私たちは 今と未来を生きているからだ。それは 今起こっている出来事であり、普段のあり方に従って生じる 自身も含めた未来の姿なのである。専門家も教育してあげるくらいの勢いを持ち、全員を成果の上がらぬ日常習慣から脱皮させるくらいの信念を持つこと。また、それを自分にも当てはめてみること。とにかく「すべての人がカリキュラムとすべき教材は現実しかない。」教師は人ではなく現実である! と、いつも心に留めておくことが大切ではなかろうか。