子供は街が育てるもの

ここ数日、寝込んでいた。体調不良の原因はわかっている・・・過労だ。体はだるいし熱っぽい。胃腸の調子も最悪で歯まで疼いてきた。しかし、やるべきことだけはやらねばならない。それは毎度のことである。自分の体は自分のためにあるのではなく、みんなのためにあるのだ。どんなに辛かろうが それは変わらない。少し養生しながら軽めに過ごせば、すぐに元へ戻るのもいつものことであろう。

なぜ そんな考え方になるのか? と問われれば、それは自身の生い立ちにあると推測せざるを得ない。両親や兄弟親戚、もちろん施設や行政なんかに一切助けてもらった記憶がない。すなわち、筆者は街全体で育ててもらったわけだ。だから、親兄弟は誰かと言われれば、それはみんなとなる。ゆえに自分や家族も含めて「誰かが特別」といった感情を持つのは、あまり好ましい人生観じゃないとも思っている。

誰もが自分の感性を正しいと感じるように、筆者も自らの経験からくるものこそベストだと信じて疑わない。だから、子供は親が育てるものではないし、ある特定の人たちや機関が養うものでもないと考える。なぜなら、それでは狭い了見しか生み出さないからだ。すべからく 当たり前のことに問題の根はあるのだろう。しかしながら、昔のように 向こう三軒両隣みたいな街づくりではもう古くて機能しないはずだ。新しいシステムによって作られたコミュニティーで、そこに生まれ、働きながら学んで生活し、すべてを経験として身に着けてこそ、大きな器の人間育成につながるのかもしれない。今ある諸問題が一向に解決しないのは、枝葉のやり方にばかりこだわっているからだ。人の最も根本的な認識が生い立ちにあるならば、変えなければならないのは その生い立ちそのものではないだろうか。