文章にも特徴や癖がある

このブログのような趣味に属するもの以外に、仕事として webサイトだけでも、常時計10個以上の文章を書いている。その他に 学術論文を週一回。不定期で 学校カリキュラムや研究資料論文、事業計画書に公のコラムと、最近は ほとんどがパソコンの前でやる仕事ばかりになってしまった。元々 Liveが好きで、話すことのほうが得意だったのだが、それは今でも変わらないだろう。両者を比較すれば、何倍も実力差があるのは重々承知している。つまり 文章力は並みであるということだ。とてもプロとして 人に何かを伝えられるレベルにはない。

プロの脚本家や作家の友人たちに 意見を求める場合もあるが、その際に指摘されるのは、筆者の文脈における顕著な特徴だ。展開と立ち上がりが早すぎるので、長文も 普通の方が書く文章量の何分の一かにまとまってしまうというのである。なるほど、これはビジネスや論文では重用されても、起承転結そのものを楽しむ 一般の読み物としては致命的であろう。ただ おそらく、これは20代の頃に身についてしまったものに思われる。当時は 抱えているコンサルティング案件が つねに30件近くもあり、それらをマンスリーユースしたホテルのスィートで、部下2人とこなしていたのだ。何台もある電話は常時鳴りっぱなしだし、FAXもフル稼働状態だった。よって 時間というものは 一分一秒縮めるためだけにあったわけだ。

習慣とはそういうものである。その後、大手の仕事から離脱して個人に戻った時、そこに流れている時間は まったく異質のもので、遊んでいるか寝ているように感じられたのを覚えている。しかし今は さまざまな表現方法を使い、なおかつ それらひとつ一つにおいても多くの違った側面を表したいと考えている。なぜなら、限定された人生ほどつまらないものはないからだ。ワンパターンの人生とは、まさしく その表現方法が限られていることに比例して起こるものである。多様性に終わりはない・・・楽しむために これ以上の指針はないと思うのだが。

毎回、毎瞬 現況を打破していかない限り、本当の意味で 自分を面白がることなんてできっこないだろう。もっと器用に多才に、そして魅力ある面白い人物になりたい。芸術家のような感性を持ち、哲学者のように熟考しながら、ダンスするように行動し、唄うように話し、優雅かつエキサイティングな音と空気を醸し出し、そのつど変化できる まさに大自然のような生き方をしたいものである。そんなエンターティメントって こういうことだろうか?  Sting ♪Englishman in New York