あるものは最大限に使ってこそ価値がある

おかげさまで もうすっかり回復したが、じつは先週末から過労による体調不良で倒れていた。食事がとれなかったので、脱水症状にならないよう水分だけこまめに補給しながら、いつもどおり仕事をこなしてはいたが、その他の時間はほとんど横になってる状況だった。一時もじっとしていられない性分なので、それはもう つらいなんてもんじゃなかったが、本人はこれを悪い事とは考えていない・・・むしろ当然のようにも思っている次第だ。

現役の経営者を退いてからの ここ10年ほどは研究だけに没頭してきたが、それもあと少しで区切りをつけるべき時期である。ならば、ここへ向けて 今のうちから鍛えておかねばならない。もっと飛躍的に効率をあげていかないと、今までの頭と体の使い方なんかじゃ役に立たないからだ。さらに何倍もキレを増し、アイデアも泉のようにわき立たせる。そのためには もっともっと自らにプレッシャーをかけて追い込んでいくしかなく・・・これは仕事を山のようにとって、完全なオーバーワークを維持し続けないと怠け者には成しえないことなのだ。

何かの目的があり、それを楽しみにしているなら、その過程で何度か倒れても意に介すものではないし、そんなの避けていたら何もできはしないだろう。子供の頃から、綺麗に生きようとするほど みっともないことはないと感じてきた。ほしいのは努力できる才能であって、何でも軽々とやれる! そんな面白くもない嘘や虚栄を演じる詐欺師としての能力ではなかったのである。人間として ぐちゃぐちゃになりながらも前へ行く。そんな「泥の中に咲く蓮の花」にこそなりたかったわけだ。愚痴を言い、弱音も吐き、ときにはダダをこねて甘えながらも、それでも言葉とは裏腹にフラフラになって進む。そんな人物をカッコいいと感じて憧れてもきたが、まさしく自分もそのようにしてきたと思う。

しかし、先生と呼ばれるようになってからは たいていスーパーマンのように見られるケースが多くなった。誰もが「自分とは違うと・・・」 けれど、それは本意ではないし事実とも異なる。伝える側は そのような不毛な受け取り方を望んでるわけではない。だが、そうだとしても、相手にそういった印象を与えたのも伝える側の責任には違いない。だから もっと「やってみせなければならない」のだ。自分のこと・・・いや 人間のことをよく知れば、努力の意味も自ずと変わってこようというもの。「機能設備として備わった この身体機能を最大限にまで発揮させてあげる」これこそが自身に対する最大のいたわりや優しさではなかろうか。あるものは使ってこそ価値あるものになるはずである。