データや統計には懐疑的にならざるを得ない

マーケットを作るのが筆者の仕事。だから、マーケットそのものには、つねに懐疑的だ。もちろん、データというものも あまり信用してはいない。なぜなら、データそのものがある種のマーケットだからである。それは食料自給率や経済成長率など、政府の提示する各種データ・統計をみても理解されるし、昨今話題の国内複数大学の関与が疑われる「ノバルティスファーマ」高血圧治療剤の臨床研究データ不正問題なんかも、まさしくここに当たる気がする。しかし、これって何も 肯定データだけじゃない。当然そこへの反証についても それは同様に言えるのであって、つまりは肯定・否定のどちらについても信頼に値しないというのが本音なのだ。

最近よく 地球温暖化や喫煙の害、地震・防災などに関しての見解を求められるが、上記がそのまま答えと言えるかもしれない。巷では「データを事実や実証とするケース」もみられるが、それはいかにも乱暴な飛躍であろう。「勝手に作れるものは誰かが意図的に作ったもの」 世間のことなんて、そのように認識していて、ちょうど良いくらいではなかろうか。

本当に役立つ 益のある面白い事とは、誰かのどこかにあるようなものじゃないだろう。遊びもエンタメも仕事も・・・そして事実も、自分でやってみて確かめてこそ、その意義も出てくるように思う。マーケットを享受する側でなく、作る側の姿勢とは、誰かの提示した データやマーケットを信じないところから生まれる。すべて参考程度にとらえて懐疑的であってこそ、新たな可能性も見えてくるはずだ。何かをうのみにする行為は、ある意味 限界や諦めを容認するのと同じである。