機能美にある現実的美しさ

筆者は造形物に対して あまり美を感じたことがない。真の合理化って、造形やデコレーションではないし、色使いや形ともちょっと違うような気がする。何とも表現しにくいが、その人や物からにじみ出る「積み重なった品とか味わい」と表現したらよいのだろうか・・・あえて表すとしたら、その人や物の言葉にしろ 佇まいにしろ、その一言や一瞬に込められたものが深く相手の感性を刺激する様。そんな「わび・さびを有する全体感」そのものを美しさと表現したいわけである。つまり、これは機能・性能・効能の一体化であって、そのどれが欠けても美しさには程遠いことを示す。

たとえば いつも散歩する公園は 入場料をとるような庭園ほどは整備されていない。だから ここにデコレーション的な美はなく、どこか雑然とした印象さえ受ける。しかし、そこには「街と街をつなぐ動線としての機能、移動時間が短く感じられるといった性能、樹木の色彩・香り・イオン効果から得られる効能」が一体となった きわめて現実的な美しさが存在する。つまり、生活とは関係ない接待や歓待の目的で作られた元の場所に戻ってくるだけの庭園か? それとも暮らしに密着した生活空間としての道か? だが、この考察にはたいへん深いものがある。

筆者が尊敬していた ある建築家の都市設計には随所に袋小路や行き止まり・・・いわゆる小道が配置されていた。これは動線としては一見矛盾してるようにもみえるが、その小道を子供たちの遊び場や住まう人の憩いの場所と捉えれば、いかにも美しいし機能美にあふれたものに感じられてもくるだろう。このように現実には、たんなる合理化や論理では、はかれないものが多数存在する。

筆者は都内でも神楽坂が一番好きだが、その理由はまさに上記の雰囲気が今も残る場所だからだ。ここには、最近 乱立してるショッピングモールや都市開発のように、商業的にどこかへ誘導するようなものとはかけ離れた風情がある。風情とは・・・矛盾の中にあり、細部にまで宿る人の暮らしの機能・性能・効能の中にこそあるものだろう。これはいうなれば 理屈を超えた感性であって、まさに人と自然との調和や共生とも言える。哲学なきものに美なし。論理を統合し、さらに高みへ導けるだけの高い知性を哲学と呼ぶが、それを品とか味わいとして表現したもの。これを美と呼ぶのではないだろうか。