日本型スタンダードだけがすべてじゃない

やっと所有権移転のための膨大な書類群から解放された。これで念願叶い「社会的な〇〇という肩書き」はすべて消滅。晴れて「ただの一個人」に戻れたわけだが、やはり30年以上にわたる仕事の痕跡を、一度に整理するのは並大抵のことではなかった。各企業の弁護士たちからは「なぜ?どうして?」と口々に質問されたが、誰にとってもやめる理由などひとつしかないはずだ。お金や地位より、人は変化を求めるのみ。ゆえに願いは「できるだけ早くやめる事」に尽きるが・・・むしろ、ここを目指していないなら「どこかがずれてるのでは?」と、今一度 自身を見なおしてみるべきではなかろうか。人には多様な価値観があるものだ。それは哲学と言ってもよいし、自然科学に対する認識と表現してもいいが、とにかく常識とか普通なんて「ただ数が多い」ということにすぎないわけである。

筆者の実家がやっていたのは、どこの下請けでもない独立独歩の生業だ。ゆえに「将来は勤め人になる」というのも、多々ある選択肢の一つでしかなかったが、とにかく学生の頃から求められたのは、自立を目的とした道筋を描く事であり、それはけして「社会の一員としてシステムへ組み込まれる」ことを目指すものではなかったのである。これらはすべて「自ら考えてやってみて、選択をして」の連続であり、そのための資材は全部自分で用意するのが基本。よって学費・生活費・交遊費などは、高校の頃から自分の手で稼ぎ出すのが当たり前であった。つまり、たとえ十代の学生であろうと、誰かや何かの世話になったり、恩恵に預かるのは許される行為ではなかったのだが、こういった生い立ちは、会社の経営や経済に対する概念にも色濃く反映されてしかるべきだろう。

会社や団体は自立支援のためだけに存在し、それゆえに社会的価値も見出されるわけで、長くそこへ留まったり、自らや社員・関係者も含めて生活のために存続させるという観念は毛頭持ち合わせていない。当然、個人と企業は一蓮托生ではないし、会社とは「たんなる場」にすぎないとも思っている。よって、いつかは・・・いや一日でも早く、誰もがここから巣立つのが肝要ではなかろうか。ここへ所属する者だけでなく、作った側に関してもそれは当てはまることである。

自立とはまさしく独り立ちを指すが『一身独立・一国独立』とは、いかなる国のどのようなスタンスの方にとっても いつの時代も変わらない唯一の目的となり得る。そろそろ画一化ではなく、多様性の時代になってきた。「明日はどうなるか?」と想像するだけではなく「明日を作るには何を身につけ、どう行動したら良いか?」を模索してゆくべき時期かもしれない。たかがここ3世代くらいの間に育まれた日本型スタンダードだけが、すべてじゃない事は、もはや誰もが気づき始めている事実のようにも思われる。