身を賭してこそ「まずはやってみせ」から始まる

お世話になった先人たちの年齢へ近づくにつれ「彼らの示してくれた真実には背けない」と、より強く感じるようになってきた。誰だってある程度の年齢になると、若い頃とは違っていろんなことが見えてくるものだが、それは「どうせ老い先も短いのだし、自分の事を案ずるよりも・・・」と考えるゆえではなかろうか。

しかしながら、いまは・・・たとえ80代90代になっても、自分のためだけに生きる方のなんと多いことかと思う。企業では、年寄りのうるさ型が集まっては「誰それが悪い」と騒ぎ立て、詰め腹を切らす輩を選び出しては糾弾するのに余念がないが・・・何故「俺が犠牲になろう」と誰も手を上げてやらないのか。そんな“逃げるが勝ち”が後輩に受け継がれれば、そんな会社は将来つぶれるしかないだろう。

また何故、高齢の学者たちが「全部私の責任」と、どうして若い研究者を擁護してやらないのかも不思議でならない。それどころか世論をことさら助長するコメントをまき散すばかりだ。しかるに、生徒をかばわない・あるべき論で逃げ回るような人々が教育者であるはずもないのだが。

そもそも、こういった方々は自分がお世話になった『今は亡き、二世代ほど前の先輩たち』と対峙してても同じ行いが出来たのだろうか? もちろん「みっともない」と烈火のごとく叱られるから、そんな事やれるはずもないが・・・ならば、あきらかに諸先輩方から受け継いだ文化に対する 重大な裏切り行為を働いてることになりはしないか。

「先輩の前ではできないけれど、鬼の居ぬ間なら」こんなずるい生き方をしていて、いったいこの先なにをして、後進にどんな有様を伝えるつもりなのだろう。その目的や指針のなさは、もはや限界に達した気さえするが、何事においても『身を賭さねば』いかなる道理も通りはしない。すべての継承は「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」に尽きると思われる。